僕の誕生日

昨日は誕生日でした。
たくさんのメッセージ本当にありがとうございました。おかげさまでまた新たなスタートを切ることができました。


昨日は朝から長女から僕の大好きな冷やし中華のプレゼントから始まりました。しかも父から岩上家秘伝の冷やし中華のタレの作り方を教えてもらいつくってくれました。
その後、千葉でハウオリのセミナーの仕事に向かい、夜、両親にあるプレゼントをしたくて、実家へ2人を迎えにいきました。


僕は幼い頃から父が嫌いでした。


デリカシーのなく、プライドがやたら高く、何もチャレンジしない父。


母のあげあし取りが得意で、相手をほめず、感謝もせず、お礼も言わず。


そんな父が嫌いでした。


味にうるさく、外食しても「俺の作ったほうがうまい」とケチをつける父。

料理を作ったら作ったで、食べてる脇で「なっ、うまいだろ!」と、超うざめコメント大臣の父。


それでもって

「ここがイマイチ」

と正直に言うと

「じゃーもう二度とつくんねー!」とキレるも、翌日にはまた何か作ってくれる父。


そしてこの父、いつも自分の考えていることは先に言わず、必ず「やっぱりそうだと思った」と後出しジャンケンの名人でもあります。


更には興味のない人に息子の曲を強制的に聞かせる天才で、子供自慢の絶えない父でもあります。

そんな父は18歳の時バス停にいた母をナンパ。そして二人は恋に落ちて二十歳で結婚。
その後22歳に「まこと美容室」二人で開業し、3人の子供を授かった。


父は仕事の傍、5人兄弟の末っ子にもかかわらず、脳梗塞で倒れた祖母を自宅に引き取り、最後まで介護しました。お店の後ろに住んでいた身寄りのないおばあさんもお世話して、最後まで見送った父。


ずっと通い続けてくれる足の悪い90を過ぎるお客様を自宅まで送迎に出向き、店でヘアセットをする美容師の父。


母の鬱に5年そばで見守り、愛犬がなくなるたびに涙し、庭にお墓を作る父。


テレビのナイター中継が大好きで、オシャレするのが大好きで、ムックのライブが大好きで、母の万年専属運転手の父。


Mahalocoでカフェのスタートを機に厨房で料理を必死にこなしてくれる父。


ピンチになると、いつも身体を張って助けてくれる父。


僕はそんなにどうして嫌うのか。
自分でもよくわかりません。


でも僕は、そんな父の背中を見て美容師になり、父の始めたまこと美容室の後を継いで、何度でも生まれ変わることができる店Mahalocoが生まれた。


どんなに自分が辛くても、困っている人を見るとなんでも引き受けてしまう父。どうやら僕はここのところを強く引き継いでしまったようだ。


二年前、マハロコのウッドデッキを一緒に修理した日を今でも鮮明に覚えている。何もしゃべらず、ただ黙々と。

そんな父は母と出逢って今年で50年が経ちました。



「それを記念に」というわけではないが、昨日Mahalocoで父の髪をカットし、母の髪をセットして結婚写真を撮りました。



結婚48年目にして

です。

母の嬉しそうな顔が、たまりませんでした。



そして、






そんな父が今、癌と闘っています。



膀胱癌から全身に転移し、先日医者から「月単位の命」と余命宣告を受けました。正直現状をみなさんに報告するかものすごく悩みましたが、昨日父から「みなさんには今まで散々お世話になったし、迷惑かけてきたし、息子達はみなさんのおかげでここまで大きくなったんだから、その人たちに直接お礼ができそうにないから、せめて『ありがとうございました』と言っといてくれ。」と、お礼も、感謝もできない父から、伝言を授かりました。



父より伝言を授かり、この場を借りて報告させていただくことにしました。



もちろん、宣告は受けましたが父も母も僕も、もちろん弟たちもそれを覆すつもりです。病気になんて負けてられないし、病気に人生振り回されたくないんです。だから僕は毎日、今までと変わらずに、いつもと同じように変わり続ける毎日を過ごす。これをとにかく意識しています。事実、僕ら兄弟3人とも、癌とわかったあの日以来、いつもと全く変わらず、いつものように変わり続けて過ごしています。

ちょっと辛いけどね。



結婚式も挙げずに突っ走ってきた2人には結婚写真が一枚もありませんでした。僕はどうしても僕の生まれた日に2人に結婚写真をプレゼントしたくて、妻にブーケとヘッドドレスを作ってもらい、仲間のゴリに写真をお願いしました。



支度中、母につられ、僕も涙が止まりませんでした。妻とゴリの協力のおかげでまた一つ、夢を叶えることができました。



父曰く
俺は『あれ、まことさんまだ生きてんの?』ってうざいくらい生きるんだから心配すんなって



泣き虫な母をいつも冗談交じりに励ましています。



なので心配していただくことはとてもありがたいことですが、みなさまも今までと変わらずに

ムックの応援に、

マグノリアでヘアチェンジに、

そしてmahalocoで、

結婚式したり
ウエディングパーティーしたり
ヘアチェンジしたり
ロコモコ食べたり
フレンチトースト食べたり
聖地巡礼したり
ヤミカラ食べたり
ハウオリしたり
あのアイス食べたり
パインスムージー飲んだり
結婚指輪作ったり
人生相談したりして

パワーチャージしていただけたら幸いです。
そして、どーしようもない父から生まれた僕ら3兄弟をみなさんの力で、もっともっと羽ばたかせてやってください。


お願いします


僕は組織に依存しない、常識にとらわれない、自分に正直に生きる生き方を父が身体を張って教えてくれていたことを、今頃のなって気づきました。


そして今後はより羽ばたくために、僕が今考えていること、仕事のこと、人生のこと、美容師のこと、家族のこと、近況、やってみて気づいたこと、アイディアなどを皆さんと一緒に生まれ変わるためのヒントとなるオンラインサロンを近日中に始めようかと考えております。


僕が両親から授けてもらった感覚的アイディアや発想の瞬発力、そして無責任なアドバイスがあなたの人生にお役に立てたら幸いです。


どうぞよろしくお願いします。



父はまだまだ元気です。



奇跡を信じて。

1コメント

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  • 夜中にこの巧さんの文を読ませて頂きました。涙が止めどもなく溢れて来ました。お父様と私の父があまりにも性格が一緒なんです。私の両親はもう他界してしまいました。独りっ子の私と主人も両親は他界して夫婦揃って天涯孤独です。唯一、宝物は3人の子宝に恵まれた事でしたが、24歳になったばっかりの次男の死は私に生きる気力もなくす辛い事でした。49日が過ぎた頃に次男の言ってた事が頭を掠めたのです! 良く次男は「ムック」の歌を中学1年から亡くなるまで11年間聴いていました。しかも聞くと毛むくじゃらのムックではなくビジュアル系って聞いてビックリしたのを今でも覚えています。そんな次男に「オカンも聴いたら絶対にボーカルの逹瑯くんが好きになるよ」って…その言葉を思い出して長い事次男の部屋に足を踏み入れられずにいたのに…それを機に入って見たらCDとDVDがいっぱい出て来ました。学生時代にバイトで稼いだお金で買ってたんです! 雑誌もありました。全てムックに関係するものばかりでした。その日始めて聴いたムックのアルバムがBEST OF MUCCで良く次男が歌ってたモロクロの景色と雨のオーケストラがあり何度も何度も聴いたのを覚えています。それからが私とムックの始まりです。巧さんの出会いも始めはラインでした。覚えていますか?次男の亡くなった事を話ました。他人に次男の死を話したのは巧さんが初めてでしたから。もう今はラインはされてないようで、InstagraにTwitterやFacebookを覗かせて頂いてます。3兄弟を立派に育て上げられたお父様やお母様を尊敬します。私は失敗だなんって思ってはいないけど…娘は嫁に行きやっと子どもにも授かり幸せに暮らしています。 長男は海外で働いていましたが私が次男を亡くしお母さんまで自殺してしまうんじゃないかって心配して帰って来てくれました。日本でも就職はしっかりしたところで働かせて貰い頑張っています。 自分なりに一生懸命分け隔てせずに育ったつもりでしたが、やはり今でも次男の死は応えるますが、逹瑯くんの声で毎日癒されるのは事実ですし、次男が良く逹瑯くんの真似して風呂で歌ってたのを思い出します。これからもずーっとムックとは縁は切れないです。親子も何やかんや言っても縁は切れないし、新たな出発頑張って下さい。これからも期待しています!お身体をご自愛して下さいね。お婆も頑張りますよ。